この8月、日本列島は豪雨や地震など、相次ぐ自然災害に見舞われました。海外でも大規模な水害や土砂災害が発生しています。被災された皆様に、心よりお見舞い申し上げます。
災害は、人命や暮らしを脅かすだけではありません。交通網が寸断されれば迂回輸送が必要となり、復旧工事では資材と人手の奪い合いが起きる。農水産物の供給が減れば、食卓にも影響が及びます。人手不足と資源高が常態化した現在、災害は一時的な景気の下押し要因というより、社会全体のコストを押し上げる「構造的なインフレ要因」になりつつあります。
かつては、災害後に消費や生産が落ち込み、需要不足から物価を押し下げる面もありました。しかし現在は、復旧に必要な資材も人材も十分ではありません。需要が戻っても供給が追いつかないため、同じ災害でも経済に与える作用が変わっているのです。
そして9月、スーパーの棚では再び値札が張り替えられます。帝国データバンクによれば、9月の飲食料品値上げは4,531品目。8月の2,311品目からほぼ倍増し、単月で4,000品目を超えるのは2023年10月以来です。中東情勢に伴う原油・ナフサ高は、物流費だけでなく、トレーや包装フィルムなど身近な資材にも波及しています。世界の出来事と私たちの暮らしの距離は、ほとんど消えてしまいました。
政府も手をこまねいているわけではありません。7月30日から8月26日までの円買い介入額は15兆3,993億円。7月31日には2011年以来15年ぶりとなる日米協調介入にも踏み切りました。さらに、飲食料品の消費税率を2027年4月から2年間、1%へ引き下げる基本方針も示されています。それでも、円相場も値札も落ち着きません。
「対策が足りない」のでしょうか。私は、問いの立て方そのものを変える必要があると考えています。いま日本に足りないのは、対策に投じる金額の大きさではなく、世界の資本から「ここに置いておきたい」と思われる国の構造ではないか――。
今月は、8月に起きた一見無関係に見えるニュースを、この一本の問いでつなぎ直してみたいと思います。
為替介入の瞬発力は劇的でした。7月下旬に1ドル=163円台後半まで進んだ円安は、8月上旬に一時155円台まで押し戻されました。しかし、その効果は長く続かず、円相場は再び160円近辺へ戻っています。過去最大規模の資金と日米協調という強いカードを切っても、大きな流れそのものは変えられませんでした。
同じことは米国の債券市場でも起きています。米財務省は8月19日、長期国債の買い戻し額を1回当たり20億ドルから40億ドル以上へ倍増すると発表しました。30年債利回りが約19年ぶりの高水準をつけるなか、市場を安定させるための措置です。ところが、発表直後に低下した金利は、翌日には発表前を上回る水準まで反発しました。
これに対し、著名投資家スタンレー・ドラッケンミラー氏は、8月24日付のウォール・ストリート・ジャーナルへの寄稿で「債券市場に語らせよ」と警告しました。金利という結果だけを押し下げても、その背後にある財政赤字やインフレは消えないという指摘です。
為替も金利も、経済の状態を映す「体温計」です。政治の力で目盛りを一時的に押し下げることはできても、高熱の原因まで治すことはできません。介入や減税には、急激な痛みを和らげ、改革までの時間を買う大切な役割があります。ただし、時間を買うことと、信認を取り戻すことは同じではないのです。
では、なぜ15兆円もの円買いを行っても、円は持続的に買われないのでしょうか。その答えは、日本の「稼ぎ方」が大きく変わったことにあります。
2025年の経常収支は31兆8,799億円の黒字で、2年連続の過去最高となりました。対外純資産も2025年末には561兆7,504億円と、8年連続で増えています。数字だけを見れば、日本は十分に豊かで、円が買われても不思議ではありません。
ただし、対外純資産の増加には、海外資産の価格上昇や円安による円換算額の膨張も含まれます。資産残高が増えることと、その資金が国内へ戻り、新たな投資や賃金、消費に回ることは別問題です。「どれだけ持っているか」だけでなく、「その資本がどこで働いているか」を見なければなりません。
ところが、黒字の中身を開けると景色が変わります。黒字を支えているのは、海外投資から得る利子や配当を示す「第一次所得収支」の41兆5,903億円です。一方、貿易・サービス収支は4兆2,415億円の赤字。第二次所得収支まで含め、第一次所得収支を除けば、日本の経常収支は約9.7兆円の赤字になります。日本はすでに、「モノを売って稼ぐ国」から、「過去に海外へ投じた資本の果実で稼ぐ国」へと姿を変えているのです。
しかも、海外で得た利益のすべてが円に戻るわけではありません。海外子会社の利益は、現地での雇用、工場やデータセンターの建設、次のM&Aへ再投資されます。帳簿上は日本のものでも、外貨のまま使われれば、為替市場では円買い需要になりません。成長市場が海外にあり、現地で支払いが発生し、外貨のほうが高い金利を得られるなら、企業が外貨で持ち続けるのは合理的な判断です。
これは大企業だけの話ではありません。個人も新NISAなどを通じ、世界株式や海外資産への投資を増やしています。政府が巨額の国費で円を買う一方、企業と家計は長期的な合理性から外貨資産を積み上げる。その結果、一度の介入よりも、毎月少しずつ積み重なる「構造的な円売り」のほうが強くなる。円安の本質は、投機だけではなく、資本がどこに将来性を感じているかという選択の結果なのです。
通貨の価値を長期的に支えるのは、外貨準備の厚みだけではありません。その国が次の時代に必要とされる価値を生み出し、世界の資本を呼び込めるかどうかです。
今、世界のお金は、「電気を運ぶもの」「データを運ぶもの」「知能を生み出すもの」へ猛烈な速度で集まっています。その象徴が、米AI企業アンソロピックの新規上場観測です。フィナンシャル・タイムズは、10月にも予定されるIPOについて、一部投資家が2兆ドル、約320兆円を超える企業価値を期待していると報じました。もちろん、これは確定した価値ではなく、期待を織り込んだ数字です。それでも、一つの成長領域へこれほどの民間資本が自律的に集まる事実は、重要な示唆を与えます。
AIへの投資は、ソフトウエア企業の株価だけの話ではありません。データセンター、半導体、送電網、発電設備、冷却装置、銅や水といった物理的な資源まで需要を連鎖させます。成長産業は、周辺の設備投資と雇用を呼び込み、さらに次の資本を引き寄せる。その循環を持てる国と持てない国の差が、やがて通貨の信認にも表れます。
資本は、政策の号令だけでは動きません。将来の利益と成長が見込める場所へ、国境を越えて先回りします。だからこそ、円が本当に買われるために必要なのは、介入の回数を増やすことではなく、日本国内に投資したい産業、技術、人材、収益機会を増やすことです。供給力を高め、付加価値を生み、そこで得た利益が再び国内へ投資される循環をつくらなければなりません。
ただし、国家や産業の構造が変わるには長い時間がかかります。私たち個人や事業経営者が、その変化をただ待つ必要はありません。国の構造改革には時間がかかるからこそ、自分の資産構造と事業の資本構造は、先に整えることができるのです。
円安になってから慌てて外貨を買い、円高になったら不安になって手放す。それでは、個人の資産運用も政策と同じ「対症療法」になってしまいます。
私は、資産運用とは相場の方向を当てることではなく、複数の未来を想定し、どの状況でも資産全体が機能するように設計することだと考えています。現預金には、生活費や納税、事業継続を支える重要な役割があります。一方で、長期資金まで円だけに集中させれば、インフレと通貨安によって実質的な購買力が削られる可能性があります。
大切なのは、10年、20年、さらに次世代という時間軸で、円資産、外貨資産、実物資産、世界の成長を取り込む資産、そして必要な流動性を組み合わせることです。経営者であれば、個人の資産だけでなく、法人の現預金、借入、退職金準備、事業投資まで一つのバランスシートとして捉える必要があります。商品を増やすのではなく、資産ごとの役割を決め、偏りをなくす。それが構造を整えるということです。
見るべきなのは、為替、金利、株価を別々に切り取った損得ではなく、資産と負債を合わせた全体の実質価値です。円安でも円高でも、インフレでも景気後退でも、生活と事業の継続に必要な資金を守りながら、成長の果実を取り込めるか。設計の基準を、名目金額から購買力へ移すことが欠かせません。
この夏の教訓は明確です。お金の力で円を一時的に買うことはできても、世界から「買われる国」を一夜でつくることはできません。だからこそ、国が変わるのを待つだけではなく、自らの資産と事業を、変化に耐えられる構造へ先に変えておく。深まる秋、皆様の大切な資産の「持続可能性」を、今一度見つめ直す時期に来ているのではないでしょうか。